こんにちは、幸せ実践塾、塾長の赤木篤(あかき・あつし)です。
さて、補習授業の6日目は、認識する事実をさらに掘り下げます。
5日目の補講では、以下のポイントを学びました。
1.客観的な事実を厳密に捉えるのは不可能。
2.客観的な事実を分析する必要はない。
3.事実はすべて認識した事実だと考えれば良い。
論理的には客観的な事実というものが存在しますが、それを認識することが難しいのです。
つまり、私たちが認識した時点で、それが認識した事実になってしまうから。
それならいっそのこと、客観的な事実など知ろうとしないことだ。
という結論だったのですが、しっかり理解してますよね?
少し繰り返しになりますが、今度は認識した事実の側から見てみましょう。
繰り返すというのは、良いことです。
知識が定着しますからね。
認識した事実とは、客観的な事実に対して、考え方とか価値観を加えたものです。
つまり言葉通り、私たちが認識した事実です。
たとえば、交通事故というのは、単に車が衝突したというだけでなく、
良くないことだという価値観が加わっています。
このように、事実に何らかの価値観が加わり、判断されたものを認識した事実と呼びます。
これは何も、言葉の問題ではありません。
私たちがその言葉に、どういう意味を与えているかという問題なのです。
たとえば、味噌汁のことを私たちは、「おみお付け」と呼ぶことがあります。
これを漢字で書くと、「御御御付け」となります。
もともと、食事に付く汁のことを「付け」と呼んだのですが、
少し丁寧に呼ぼうとして「お付け」になったのだそうです。
ところが、「お付け」と呼ばれるのが普通になると、そこに丁寧さを感じなくなります。
それで「お付け」を丁寧に呼ぼうとして「みお付け」となりました。
そして同じように、「みお付け」を丁寧に呼ぼうとして「おみお付け」となったのだとか。
なんだか笑い話みたいですね。
このように言葉というものは、時代や場所によって、意味するものが変わってきます。
二人称の「きみ」や「きさま」も、本当は高貴な方の呼び方だったのです。
漢字で書くと、「君」「貴様」ですから。
それが現代では、どちらかと言えば目下の人を呼ぶ言葉に変わっています。
ですから重要なのは言葉そのものではなく、
そこにどういう気持が働いているかということなのです。
認識した事実とは、発生した事実に対して、何らかの価値観や考え方が加わったものです。
つまり、同じ事実であっても、加わる価値観や考え方が変われば、違って認識されるということです。
たとえば、30℃の気温という事実に対しても、「暑くてたまらない温度だ」と認識できますし、
「ホっとする暖かさだ」とも認識できます。
中学生のころ、私は野球部だったので、夏休み中も学校へ行って練習したものです。
そんなとき、顧問の先生から「暑いと言うな!」とよく言われたものです。
いくら暑いと言ったって涼しくはならないからと。
「でも暑いものは暑いんだから、しょうがないじゃん。」
などと、友達と言い合ったものです。
今にして思えば、先生の指摘はもっともです。
いくら「暑い」と言ったって涼しくはならず、不快な気持ちが続くだけです。
私は、不快だから「暑い」と言ったのですが、
それを言葉にすることによって、不快だということを認めたのです。
ただ、不快だという気持ちをごまかして、「涼しい」と言ってみても、あまり意味はありません。
なぜなら、不快だという気持ちが消えていないからです。
「不快だけれども言わない方が良さそうだから、無理をして涼しいと言おう。」
そんな気持ち、つまり考えがこもった言葉が、その時の「涼しい」という言葉なのです。
では、どうすれば良いのでしょうか?
それは、その状態の中に、喜びの種を見つけることです。
それによって、心から喜ぶことが重要です。
たとえば、そんなに暑いとき、何かメリットはないでしょうか?
今なら、「終わった後のビールが美味い!」と言えるのですけど。
当時は中学生ですから、練習後の水のガブ飲みがとても気持ち良かったです。
コーラの一気飲みなんていうのもたまにやりましたね。
そういうものの美味しさが増すのですから、気温が高いのも悪いことではない。
そう考えれば、不快さが遠のくのではないでしょうか?
「どんなに考えても、その中に喜びの種なんて 見つけられるはずがない。」
そういうことが、あるのではないか?
そう思われてますよね。
私も、そう思っていました。
たとえば、恋人が目の前で強姦されたり、家族が惨殺されるなど。
そんな極端な例を挙げるまでもなく、喜びの種を見いだせない事実というものがあるような気がします。
そして、もしそれがその通りなら、「幸せの公式」など役に立たないでしょう。
これは、かなり悩みました。
でも、これについても答を見つけました。
それは、そういう悲劇に合いながら、なお犯人を許そうとした例があるからです。
死刑廃止を訴えている人たちの中にも、そういう人がいます。
自分の家族が殺されたのに、犯人を許すと。
しかも、犯人が謝罪したからではなく、無条件に許すというのです。
どうして、そんなことができるのでしょうか?
それは、想像力です。
どんな極悪非道の人も、生まれつきそうではなかった。
その人がそうなるには、そうなるだけの理由があった。
それが何かはわからないけれど、
もし自分が同じ条件で生まれ育ったなら、同じようになったかもしれない。
そう考えれば、その憎い犯人とは、違った条件で生まれ育った自分自身だとも言えるのです。
そう想像して犯人を許す気持ちになると、心の中に温かいものが広がります。
それは、自分の中にあった愛を、今、見つけ出したからです。
もしそうだとすると、その犯人によって家族が殺されたという出来事は、悪いことだけだったでしょうか?
すべての事実の中に、必ず喜びの種を見つける考え方があるのです。
今日の補講はこれで終わりです。
明日は補習授業の7日目で、:「「幸せの公式」を応用する」です。
楽しみにお待ちくださいね。
また、以下の動画で復習するのもお勧めです。
●1限目:前日の補習の復習
●2限目:認識した事実とは
●3限目:言葉の問題?
●4限目:言葉を変えても無意味
●5限目:喜びの種を見つける
●6限目:喜びの種が見つけられない事象
【幸せの公式7日間補講】全ページへのリンクはこちらです。
補講1日目:「幸せとは?」
補講2日目:「事実と感情の隙間にあるもの」
補講3日目:「「幸せの公式」とは?」
補講4日目:「客観的な事実と認識する事実」
補講5日目:「客観的な事実は無意味」
補講6日目:「認識する事実は考え方次第」
補講7日目:「「幸せの公式」を応用する」
また、以下のページから動画講座の内容がすべて見られるようになっています。
→無料講座「幸せの公式7日間補講」動画バージョン
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