こんにちは、幸せ実践塾、塾長の赤木篤(あかき・あつし)です。

■【幸せの公式7日間補講】補習授業6日目:認識する事実は考え方次第

さて、補習授業の6日目は、認識する事実をさらに掘り下げます。


●1限目:前日の補習の復習

5日目の補講では、以下のポイントを学びました。

1.客観的な事実を厳密に捉えるのは不可能。

2.客観的な事実を分析する必要はない。

3.事実はすべて認識した事実だと考えれば良い。



論理的には客観的な事実というものが存在しますが、それを認識することが難しいのです。

つまり、私たちが認識した時点で、それが認識した事実になってしまうから。

それならいっそのこと、客観的な事実など知ろうとしないことだ。

という結論だったのですが、しっかり理解してますよね?


●2限目:認識した事実とは

少し繰り返しになりますが、今度は認識した事実の側から見てみましょう。

繰り返すというのは、良いことです。

知識が定着しますからね。

認識した事実とは、客観的な事実に対して、考え方とか価値観を加えたものです。

つまり言葉通り、私たちが認識した事実です。


たとえば、交通事故というのは、単に車が衝突したというだけでなく、
良くないことだという価値観が加わっています。

このように、事実に何らかの価値観が加わり、判断されたものを認識した事実と呼びます。


●3限目:言葉の問題?

これは何も、言葉の問題ではありません。

私たちがその言葉に、どういう意味を与えているかという問題なのです。

たとえば、味噌汁のことを私たちは、「おみお付け」と呼ぶことがあります。

これを漢字で書くと、「御御御付け」となります。

もともと、食事に付く汁のことを「付け」と呼んだのですが、
少し丁寧に呼ぼうとして「お付け」になったのだそうです。

ところが、「お付け」と呼ばれるのが普通になると、そこに丁寧さを感じなくなります。

それで「お付け」を丁寧に呼ぼうとして「みお付け」となりました。

そして同じように、「みお付け」を丁寧に呼ぼうとして「おみお付け」となったのだとか。

なんだか笑い話みたいですね。


このように言葉というものは、時代や場所によって、意味するものが変わってきます。

二人称の「きみ」や「きさま」も、本当は高貴な方の呼び方だったのです。

漢字で書くと、「君」「貴様」ですから。

それが現代では、どちらかと言えば目下の人を呼ぶ言葉に変わっています。

ですから重要なのは言葉そのものではなく、
そこにどういう気持が働いているかということなのです。


●4限目:言葉を変えても無意味

認識した事実とは、発生した事実に対して、何らかの価値観や考え方が加わったものです。

つまり、同じ事実であっても、加わる価値観や考え方が変われば、違って認識されるということです。

たとえば、30℃の気温という事実に対しても、「暑くてたまらない温度だ」と認識できますし、
「ホっとする暖かさだ」とも認識できます。


中学生のころ、私は野球部だったので、夏休み中も学校へ行って練習したものです。

そんなとき、顧問の先生から「暑いと言うな!」とよく言われたものです。

いくら暑いと言ったって涼しくはならないからと。

「でも暑いものは暑いんだから、しょうがないじゃん。」

などと、友達と言い合ったものです。

今にして思えば、先生の指摘はもっともです。

いくら「暑い」と言ったって涼しくはならず、不快な気持ちが続くだけです。

私は、不快だから「暑い」と言ったのですが、
それを言葉にすることによって、不快だということを認めたのです。


ただ、不快だという気持ちをごまかして、「涼しい」と言ってみても、あまり意味はありません。

なぜなら、不快だという気持ちが消えていないからです。

「不快だけれども言わない方が良さそうだから、無理をして涼しいと言おう。」

そんな気持ち、つまり考えがこもった言葉が、その時の「涼しい」という言葉なのです。


●5限目:喜びの種を見つける

では、どうすれば良いのでしょうか?

それは、その状態の中に、喜びの種を見つけることです。

それによって、心から喜ぶことが重要です。


たとえば、そんなに暑いとき、何かメリットはないでしょうか?

今なら、「終わった後のビールが美味い!」と言えるのですけど。
当時は中学生ですから、練習後の水のガブ飲みがとても気持ち良かったです。

コーラの一気飲みなんていうのもたまにやりましたね。

そういうものの美味しさが増すのですから、気温が高いのも悪いことではない。

そう考えれば、不快さが遠のくのではないでしょうか?


●6限目:喜びの種が見つけられない事象

「どんなに考えても、その中に喜びの種なんて 見つけられるはずがない。」

そういうことが、あるのではないか?

そう思われてますよね。

私も、そう思っていました。


たとえば、恋人が目の前で強姦されたり、家族が惨殺されるなど。

そんな極端な例を挙げるまでもなく、喜びの種を見いだせない事実というものがあるような気がします。

そして、もしそれがその通りなら、「幸せの公式」など役に立たないでしょう。


これは、かなり悩みました。

でも、これについても答を見つけました。

それは、そういう悲劇に合いながら、なお犯人を許そうとした例があるからです。

死刑廃止を訴えている人たちの中にも、そういう人がいます。

自分の家族が殺されたのに、犯人を許すと。

しかも、犯人が謝罪したからではなく、無条件に許すというのです。

どうして、そんなことができるのでしょうか?


それは、想像力です。

どんな極悪非道の人も、生まれつきそうではなかった。

その人がそうなるには、そうなるだけの理由があった。

それが何かはわからないけれど、
もし自分が同じ条件で生まれ育ったなら、同じようになったかもしれない

そう考えれば、その憎い犯人とは、違った条件で生まれ育った自分自身だとも言えるのです。


そう想像して犯人を許す気持ちになると、心の中に温かいものが広がります。

それは、自分の中にあった愛を、今、見つけ出したからです。

もしそうだとすると、その犯人によって家族が殺されたという出来事は、悪いことだけだったでしょうか?


すべての事実の中に、必ず喜びの種を見つける考え方があるのです。


●終礼

今日の補講はこれで終わりです。

明日は補習授業の7日目で、:「「幸せの公式」を応用する」です。

楽しみにお待ちくださいね。


また、以下の動画で復習するのもお勧めです。


●1限目:前日の補習の復習


●2限目:認識した事実とは


●3限目:言葉の問題?


●4限目:言葉を変えても無意味


●5限目:喜びの種を見つける


●6限目:喜びの種が見つけられない事象


●講座内リンク

【幸せの公式7日間補講】全ページへのリンクはこちらです。

補講1日目:「幸せとは?」
補講2日目:「事実と感情の隙間にあるもの」
補講3日目:「「幸せの公式」とは?」
補講4日目:「客観的な事実と認識する事実」
補講5日目:「客観的な事実は無意味」
補講6日目:「認識する事実は考え方次第」
補講7日目:「「幸せの公式」を応用する」


また、以下のページから動画講座の内容がすべて見られるようになっています。

無料講座「幸せの公式7日間補講」動画バージョン


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■連絡先

◇氏名:赤木 篤(あかき・あつし) 幸せ実践塾・塾長

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◇メールアドレス:a.akaki●kekkon-4awase.com (左記●を@半角に置き換えてください。)

◇ブログ:「傷ついた心を癒して幸せになる!~「幸せの公式」メソッドで幸せ体質に変革する方法」

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